開講までの道のり


競泳選手時代(小3~中2)

幼稚園から水泳を習っていました。選手コースになることができたのは小学校3年生です。当時の私は、正義のヒーローに憧れ、強くなりたいと思っていました。また当時日本に入ってきたばかりの『NIKE』の選手ジャージにあこがれ、『勝利の女神』に心ときめかせて選手になったことをよく覚えています。


選手になってからというもの、水泳が大嫌いになりました。やめたくてたまりませんでした。理由は根性論中心の指導で練習の意味がわからなかったことと、初めて行った合宿で植えついてしまった恐怖心です。

 

今では考えられないような外の冷たいプールで先生はジャージを着てプールサイドから指導する中、ゴーグルに涙をたっぷりとため、動かない体を必死に動かしていました。体調が悪くなり発熱したのですが、プールに入れば治る、と言われ泳ぎました。また、私のクラスではなかったのですが、年上の選手のクラスの先生が風貌も言動も恐ろしく、とてもここには書けないようなことが行われていました。

 

指導については細かいことを習った記憶はありません。根性論の指導がとても多かったように思います。『やっとけ』『なんでできないのか』…。なぜその練習をやるのか意味を見出すことができず、作業的にこなしていました。自分が速くなるため、というよりも先生に怒られないために泳いでいた感じです。

 

私がそう思っていただけかもしれません。しっかりと結果を出していた選手もたくさんいますから。自分がもっと強ければよかったわけです。ですが、そんな中『こんな先生がいたらいいな…』と自分の理想の先生をイメージしていたことをよく記憶しています。




 

何か技術を教わった記憶はほとんどありませんが、耐える力はついたと思います。今でもそれは生きています。また、ゴールデンエイジに鍛えてもらったおかげで、今の体の基礎、運動の基礎を作ってもらいました。そういう面ではとても感謝しています。ですが最後まで水泳を好きなることはできませんでした。

 

選手時代、『腹筋の割れていない先生の言うことを聞いて腹筋が割れるのだろうか。』『自分より遅い先生の指導で自分は早くなれるのだろうか。』生意気にもそんなことを考えていました。自分ができないことを先生のせいにしていました。伸びるはずがありません。典型的なダメな思考法です。当然のように目標だった全国大会出場を果たすことはできませんでした。

 

選手時代、クロール50mのタイムは30秒を切ることができませんでした。水泳指導員になって間もなく、練習もせずに測定したら28秒…。体が大きくなっただけで速くなっていました。『もし水泳が好きで続けていたら…』。『たられば』はいけませんが、もし自分のような弱い心の人でも適切に指導すれば上達するのではないか…。人の力を引き出すことに興味を持ったのはその時です。

 

競泳選手時代にイメージした理想の先生…。『生徒の話に耳を傾けてくれる』『練習の根拠を教えてくれる』『おもしろい』『先生も目標に向かって頑張っている』『絶対に最後まであきらめない』『いつも全力で応援してくれる』『先生すごい!と思える』『先生のためにも頑張りたい!と思える』『自分以外の人も大切にしてくれる』…。


競泳コーチ時代は常に自分にとっての理想の先生を目指していました。今も心の底ではそれを目指し続けていると思います。私が先生を目指した原点はこの時代にあります。

 

 

 

 

 

 

 

競泳コーチ時代(兼肢体不自由介助員など)

 

きっかけの言葉と『思い』

 

「先生を全国コーチにします!」

 

私が競泳コーチ時代、担当させてもらっていた当時小学2年生だった選手が私に言いました。力はありましたが器用な選手ではありませんでした。この時点でまだ平泳ぎができていませんでした。私には全国大会など全く見えませんでした。ですが『全国大会に出る!』という『思い』はチームで一番だったと思います。

 

当時私は中学校教員になるために教員採用試験合格に向けて勉強をしていました。もともと子どもと一緒にいることが大好きだったので、競泳選手経験を活かしてインストラクターをしながら漠然と教員になろうと考え、安定した生活を求めていました。

 

ですが、この言葉を聞いたとき、『自分の思いはこの子に及んでいない』『努力できない人間が努力しろと言うのはおかしい』『大人が努力するからこそ子どもも努力するようになるのではないだろうか』そんなことを考えるようになりました。

 

 

 

駄馬

 

そんなある時、私の担当していた選手が他のクラブのコーチから駄馬と言われました。「駄馬はサラブレッドにはなれないんだよ緑川。」と。あの時ほどの悔しい思いを感じたことはありません。自分の大切な選手が馬鹿にされたことで怒りに燃え、自分の指導力のなさに情けなさを感じました。でも今考えてみれば小学校2年生の選手に平泳ぎを教えきれないようなダメコーチだったのです。そう言われても仕方ありません。私が一番の駄馬だったのですから。

 

ですがそんな屈辱的な『思い』は『絶対にやってやる!』という強烈な『思い』に変わりました。体調を崩しても合宿をこなし、血尿が出てもひるむことなく、脱腸になっても休むことなく取り組みました。引退して気付いたら10年間無遅刻無欠席でした。

 

それまで、ほとんど指導理論がなく、気持ちだけで指導していました。それではいけないと指導技術論の他、体の仕組み、コーチングや心理学も独自に学びました。そして脳科学に出会い、考え方を変える方法、脳の仕組みを理解することが目標達成につながることを知りました。

 

脳科学を学び始めて、これまで以上に選手以外の仕事にも力を入れ、どんなことも全力で取り組みました。年間で丸一日休みというのは数日でした。それでも苦しい、とか嫌だ、という感情は不思議なほどなく、充実感と満足感に満たされていました。

 

 

 

『思い』が環境を作り出す

 

その選手が小学校5年生になった夏、とうとう全国大会の切符を手に入れました!しかも種目は泳げなかった平泳ぎです。その時の感動は一生忘れないでしょう。涙で視界が曇り両手が震えでストップウォッチを押すことができませんでした。そして、私に駄馬と言ったコーチが私のところに来て言いました。「駄馬も鍛えればサラブレッドになるんだな。悪かった。おめでとう。」と。

 

当時、全国大会など夢の話でした。達成の方法論や指導論もありませんでした。ですが、絶対にやってやる!という『思い』が強くなると、夢が『目的』となり、その達成に必要な『目標』が見えるようになりました。できない、と勝手に制限をかけていたのは私自身でした。

 

『できるかどうか』という根拠はいらないのです。『したい』『なりたい』という『思い』が目的達成の方法を見えるようさせてくれます。努力を苦しんで耐え忍んでやり続ける必要はありません。『思い』が努力をむしろ楽しく、充実した気持ちに変えてくれます。『思い』の大きさは、努力の大きさやそこから生まれる感動の大きさと比例するのです。

 

このことを多くの子どもたちに伝えたい!この私の『思い』がすべての原点です。『みどりの寺子屋』の『みどり』というのは、その当時の小学生ちびっこ選手たちが私を『みどり』と呼んでくれていた愛称から来ています。また、ピンク色は競泳コーチ時代、日大出身ということもありチームカラーをピンク色にしていたことが原点です。初心を忘れないために今でも大切にしている色です。

 



本来の目的であった教員採用試験に集中するため、競泳コーチを引退しました。ですが未練があったのでしょう。3か月間、何もできない時期がありました。目的を失うと脳は楽をすることを目的にします。その通りになりました。


この時期に、もう一度『自分が本当にしたいことは何か』を考え、再出発を果たしました。






バレー部指導員時代(兼学級経営補助員など)


『思い』なくして成長なし

 

競泳コーチ時代に全国大会に毎回行けるようになり、天狗になっていた私がいました。バレーボールのコーチを引き受けたとき、都大会出場程度の目標なら絶対にやれると信じて疑いませんでした。しかし、結果は都大会どころか地域ベスト8にも入れないチームしか作ることができませんでした。

 

そこで感じたことは選手の『思い』の圧倒的な違い。競泳選手たちは私が何もしなくても高い目標と意志を持っていたのでした。つまり私の指導力ではなく選手の力だったのです。公立学校の部活動ではそういうわけにはいきません。

 

すべての子どもが始めから高いレベルの『思い』があるわけではありませんでした。バレー部なんだから当たり前、と思っていた私が間違っていました。無理矢理押し付ければ脳は自己防衛し、反発します。一から丁寧に『思い』を膨らませる積み重ねが必要でした。もっとバレーを好きになるような環境づくりが必要でした。もっと選手一人一人の『思い』をくみ取って指導するべきでした。それに気づくことが遅すぎました。選手たちには本当に申し訳ないと思っています。

 

ただ、その積み重ねは、目的達成はできなかったものの、結果としてみんなから愛されるチームとなることができました。高校を卒業した彼女たちはそれぞれの道で活躍していることを耳にしています。一人は寺子屋の指導員として助けてくれています。

 

 


成功と失敗を活かして

 

どういう形で指導することが一番子どもたちの成長を手助けすることができるだろうか、ということを考え始めました。自分の目標である教員になることで、自分がイメージするような細かい配慮や指導ができるだろうか、という疑問も持つようになりました。競泳指導員、バレー指導員をしながら肢体不自由介助員の仕事やが学級経営補助員という形で常に学校の中にいることができていましたのでいろいろと分析していました。

 

約5年前から特別支援学級の補助員をやるようになりました。そこで感じたことが、通常学級ではなかなかできない、生徒一人一人への細かな配慮、保護者を巻き込んでの指導スタイルです。心のこもった配慮と粘り強い指導の積み重ねで子どもたちは大きく変わっていくことを目の当たりにしました。また、成長する子は必ず保護者の方のご理解やご協力があり、保護者の方の姿勢がそのまま子どもに映し出されていることも感じました。

 

 

 

こうして2012年の10月から具体的に準備を始め、2013年9月に『みどりの寺子屋』が開講しました。

 

たくさんの失敗を重ねた私ですが、私の考えに賛同し、無給でもいいから協力させてほしいと言ってくれた多くの教え子たち、惜しみない協力をしてくれた友人たちのおかげで今日の寺子屋があります。私のやってきたことが無駄ではなかったと思える、私の財産です。

 

開講当時、たった2人の生徒さんからのスタートでしたが、現在は30名を超えるようになりました。多くの教え子たちに恥じないよう、努力し続け、より多くの子どもたちに幸せを自分でつかみ取る力をつけさせたいと思っています。